同じハウスで菊と小松菜を栽培
福岡市と北九州市の中間地点に位置する、福岡県田川市。かつては炭鉱の町として知られていましたが、現在はお米や花卉の栽培がさかんな地域です。
冨士本稔さん(47歳)は、ここで20歳の頃から菊を栽培。そして3年前から小松菜の栽培も始めました。花と葉物。栽培方法もサイクルも異なる作物を、同じハウスで作り続けるその訳は?現地を訪ねました。
「このハウスは、僕が25歳の時に建てました。今年で22年目。子どもは7人。孫も3人います」
就農して以来、着々と栽培規模と売上を伸ばし、田川を代表する菊農家になりました。
現在はJAたがわ青壮年部の部長や、花市場の菊部会の部会長を務めるなど、重要ポストにも就任。ベテランと若手をつなぐ立ち位置で、田川の農業を盛り立てています。
そんな冨士本さんの家は元々専業農家ではなく、父は大工として働きながらお米を栽培する兼業農家でした。それでも温室を建て、本格的な栽培技術を身につけ、花と野菜、両面から田川の農業をリードする生産者に成長したのはなぜでしょう?これまでの歩みについてお伺いしました。
野菜から花へ、いきなり方向転換
冨士本さんは、地元の工業高校へ進学。当時は、野球一筋の生活を送っていました。卒業後は、野球の特待生として大学へ進む道もありましたが、体が小さかったため進学は見送りました。それでも本人は「あまり勉強した記憶はない」のに成績はトップだったので、学校から一流メーカーへの推薦を提案されても、まだ働くつもりはなく断ったそうです。
では専門学校へとなった時、「たまたま幼なじみの先輩が農業大学校へ通っていて、誘ってくれました。といっても工業高校に通っていたので、試験を受けても訳がわからない。でも、なぜか作文を書いたら受かっていました」
そんなこんなで、農業大学校へ入学した冨士本さん。100人の仲間たちとの同じ釜の飯を食べる寮生活が始まりました。自分の家ではお米を栽培していたので、当初は稲作を専攻していました。農業大学校では、2年生になると4カ月間の「農業留学」を経験します。県内の農家へ泊まり込み、そこで働きながら栽培を学ぶというもの。配属されたのは、お米やトマト、キュウリを栽培してる北九州市の農家でした。
当時まだ高校を出たばかり。スポーツマンで初々しかった冨士本さんは、「研修先のお兄さんたちに、目をかけていただいた」そうです。そして目を見張ったのは、彼らが乗っている車でした。
「まだ20代前半なのに、外車に乗っている人もいれば、国産の高級車を乗り回している人もいる。みんながカッコよく見えて、いつか自分もこの一員になりたいと思いました」
今から30年ほど前の話。バブルが弾ける直前で、若手農家の間には「作ったら作っただけ売れる」。そんな気概が高まっていました。
そんな先輩たちの姿に憧れて、卒業後は野菜とお米で就農しようと考えていた冨士本さんでしたが、研修終了後に思わぬ方向転換を迫られます。
「家の近くに補助事業で大きなハウスが建つから、そこに入って農業を始めないか?」
そんな話が舞い込みました。自宅に施設園芸の設備はなかったので、願ってもない話です。ところが、そのハウスに入る条件は「花を作ること」でした。
家は米を作る兼業農家。4カ月間、冨士本さんが研修先で学んだのは野菜の栽培で、花については知識も経験もまったくありませんでした。
それでも卒業後は、花を作って稼ぎたい。残された時間は、あと半年。春までに栽培技術を身につけるにはどうすればよいのだろう?とにかく、現場で経験を積まなければ。そこで、冨士本さんは夏の農家留学終了後、それまでの米専攻から花専攻へ方向転換。週末になると農業大学校のある筑紫野市から田川の実家へ帰り、そこから地元で菊を栽培する水永雄(みずなが・ゆう)さんの元へ通い、菊の栽培方法を学びます。
初めて会った時、水永さんはあまりの若さとやんちゃそうな様子に「ほんとに大丈夫か?」と危ぶんだそうですが、「やり始めると熱心で、必死で学ぼうとする姿勢に感心した。ほどなく第一印象はひっくり返った」と、後から話されていたそうです。
父の決断に背中を押され…
卒業後も水永さんに菊栽培を学び、時折失敗しながらも、菊農家として歩み始めた冨士本さん。5年が過ぎた頃「自前の温室を建てて、規模を拡大したい」と考えました。当時まだ25歳。貯金もなく資金が足りません。父の悟さんに相談すると、
「男の生涯で、何度もないターニングポイントだ。お前にこの家と土地をやるから担保にしろ」と言ってくれたそうです。
「お袋は『私たちの人生すべてを、あんたに賭けていいのかわからん』と泣いていました。当時父は40代で、今の僕より若かった。その後50歳で亡くなりました。もし今、自分が息子に同じ相談を持ちかけられたら、『お前に賭ける』と言えるかどうかわかりません。そう決断してくれた親父は、本当にすごかったと思います」
この時に「絶対農業で食べていかなければ」と覚悟を決めた冨士本さん。無我夢中で働きましたが、離婚を経験。35歳でさらに規模を拡大。温室の面積は、1haを超えるまでになっていました。
冨士本さんは、就農当初から共販ではなく個人で市場出荷していました。常に顧客が何を求めているかを考え、花のサイズや栽培周期を見直していきました。例えば、菊の花は丈を90㎝に切りそろえて箱詰めするのが一般的ですが、それには圃場で丈1~1.1mまで育てなければなりません。しかし、
「実際に花屋さんを回ってみたら、お店でどんどん花を折って、短くなって売られている。中には20㎝になっているのもありました。切って捨てた70㎝にどれだけ時間とコストがかかっているのだろう?だとしたら、最初から60~80㎝の菊を作って売れば、捨てている分の日数や経費を削減できる。それまで3回転がやっとでしたが、3.5回転できるじゃないか」
そんな形で栽培効率を上げ、ムダなコストを削減しながら、フル回転で菊を作り続けていました。
元気でいきおいのある菊に
菊を作り始めた頃、冨士本さんは先輩に言われた通りに同じ資材を使って栽培していたのですが、環境や土質が違うため、なかなか同じように品質のよい菊を育てることができず、連作障害にも悩んでいました。そんな時、先輩の菊農家
山本隆さん(バクタモンな人々№24に登場)を通じて知ったのがバクタモン®でした。
「実際に、バクタモン®を使っているハウスを見に行ったら、とても元気がいい。そして、いきおいがあると感じました」
こうして、農業資材を扱う株式会社サンセラプラントの小林克己さんを通じてバクタモン®を購入し、圃場に投入するようになります。
「定植前の圃場に直接混ぜるのと、苗を定植した後に上から散布するのを、年2回のペースで与えていました。すると、ある時から堆肥の投入量が少なくても、それまで通り花が育つようになってきました」
冨士本さんは、肥料分の多い鶏糞堆肥を追肥代わりに施用しています。苗を植えてある程度根付いて生育し始めた頃、株間にペレット状の鶏糞堆肥を筋状に広げ、その上からバクタモン®を散布すると、散水するたびに鶏糞の肥料分が溶けだし、根がほどよいスピードで吸い上げている。急激に吸わないようにバクタモン®がバランスを調整している。そうすることで「元気でいきおいのある菊」が育つ。そんなイメージで栽培しています。
ピンチをチャンスに!
3年前の夏、そんな冨士本さんの菊栽培に、ある事件が起こります。
「温室の花が全部ダメになっていました」
栽培を任せていたスタッフが、忽然と姿を消してしまったのです。冨士本さんが多くの先輩の世話になり育ててもらったように、自分も人材を育てて独立させようと、ハウスの管理を任せていました。あと一歩で一人前になると思っていた矢先、連絡がつかなくなり、ハウスには荒れた菊が残されていました。
折しも同じタイミングで、ベトナムから技能実習生が来ることになっていました。せっかく来ても花がなければ、彼らに任せられる仕事がありません。売上が立たなければ、従業員の給料も払えません。
「菊は無理でも、何かすぐに作れて収穫できるものはないだろうか」
なんとか残った花を売りながら、菊を片付けたハウスに種を蒔いて、1カ月以内に販売できる作物といえば、短期間で収穫できる葉物野菜しかありません。
「そうだ。小松菜を作ろう!」
こうして冨士本さんは、菊を抜いたハウスに小松菜の種子を蒔き始めたのです。
冨士本さん自身、野菜を作るのはそれが初めてではありませんでした。というのも、最初に菊作りのイロハを教えてくれた水永雄さんが他界された後、その孫である佑太郎さんが継いでいたのですが、彼は花ではなく同じハウスで野菜を栽培していて、祖父の代わりに冨士本さんがそれをサポートしていたのです。
20歳で菊を始めた頃、雄さんに助けてもらった。亡くなった雄さんに、孫の佑太郎さんが成功する姿を見せて恩返しがしたい。そんな思いもありました。
「できれば、ずっと花一本で勝負したかった自分もいますが、どこかで限界を感じていたのも事実です。ピンチを乗り切るために野菜作りにも取り組んだのですが、花とはまた違って面白い。やり方しだいでは、こっちの方が面白いかもしれない」
いつかそんな気持ちが湧いてきたのです。
品種を変えて連作障害を回避
冨士本さんが夏に栽培しているのは「夏の甲子園」。それを改良した「真夏の四番打者」。さらに「春のセンバツ」「秋冬のエース」「冬の豪速球」(トキタ種苗)など、一年を通してなぜか高校野球にちなんだ品種名もあります。さらに、サカタのたねの「里きらり」も加わって、多彩な品種を栽培しています。
「小松菜は品種改良が進んでいて、どの品種がいいのかよくわかりません。毎年天候が変わるので、去年はこの品種がよかったけど、今年はダメだった。そんなことの連続で、データをとってもそれが参考にならない。だから、どんどん品種を変えています」
小松菜栽培のこだわりは、「同じ場所に、同じ品種を2度蒔かない」こと。それは長年栽培してきた菊にもいえることで、同じ品種を2度続けて植えると、発芽率も収量も若干落ちてしまいがち。それよりも品種を変える方ができがよく、連作障害の回避にもつながることにヒントを得ました。
施肥と農薬使用の難しさ
さて、コロナ禍が始まって以来、全国的に冠婚葬祭の少人数化が進んでいます。結婚式は身内のみ。葬儀も家族葬が中心で、会場を飾る花の需要がめっきり減ってしまいました。
「九州では、花を作っていた温室で野菜を作り始める農家が増えています。佐賀ではキュウリが増えている。需給バランスが崩れてトマトが暴落したりナスを作り始める人もいます」
しかし、長期に栽培する花と、短期間で収穫できる小松菜では、必要とする養分も施肥設計も異なるため、どちらに照準を合わせるかが課題になってきます。肥料の成分を花に合わせると葉物野菜には多すぎて、葉物に合わせると花には足りないので欠乏症が出てします。そこで、葉物にとって「少し多め」の施肥をした後にバクタモン®を散布すると、小松菜の根が過剰に窒素を吸収するのを抑制する。そんな「土壌の調整役」としても活躍しています。
さらに観賞用の花と食用の野菜では、使用できる農薬の種類や使用量が大きく異なります。とくに小松菜等の葉物野菜は、土中に残留した農薬を吸いやすい性質があるので、菊の後に小松菜を育てる場合は注意が必要です。冨士本さんは、残留農薬の検査を行って、基準値をクリアしながら出荷を続けていますが、今後も同じ圃場で菊と小松菜を安全に作り続ける栽培方法を研究中。バクタモン®に相乗効果のある微生物資材を導入して、土中に残る薬剤の成分を分解する方法を探っています。
就農して27年。農家の先輩たちに憧れて、冨士本さん自身、専業農家として栽培を始めた頃よりも、ずっと農業を取り巻く状況が厳しくなったいるのを感じます。
「新しいハウスを建てようと思っても、鉄骨が高騰してかつての倍以上の値段になっていて、現実的ではありません。となると高齢の生産者が継続している温室栽培をどこまでサポートできるか。今有るものや人、その技術を大事にしたい」
冨士本さんは、そんな田川の農業の未来を見据えて法人化。2020年12月に株式会社マム・ランドを設立しました。「マム」は花でなく、「菊」を意味しています。
その事業は花や野菜の栽培にとどまらず、穀物、加工、卸売、農作業全般を多岐にわたっています。まるで農業全体のオールラウンドプレイヤー。
「畑の維持管理はできるけど、収穫と出荷は難しい」という高齢の生産者がいれば、従業員を派遣して、収穫した野菜を引き取り販売する。やる気と体力はあるのに、資金と施設のない若者がいたら、雇用してスキルを磨いて、手の足りないハウスへ派遣する。そんな新しい流れを考えています。
そしてこれから取り組みたいと考えているのは「野菜の水耕栽培」。新しいプラントを建てて、地元の子どもたちがいつ来ても新鮮な野菜を食べられるテーマパークを作りたいと考えています。
「野菜嫌いの子どもでも、水耕栽培なら苦味やえぐみが少ないので食べやすい。でも栄養価は土耕と一緒だよ。そんな場所を作りたい。水耕になっても、育苗培土や生育途中の葉面散布材としてバクタモン®を活用していく予定です」
20歳の頃、先輩農家の姿を見て「すごい。あんな風になりたい」と憧れて就農を決意した冨士本さん。時代や状況が変わっても、若者や子どもたちが田川の農業に希望や憧れを抱けるように、未来像を描いています。
2022年7月4日
取材・文/三好かやの
|