徳島県阿波市の農家に生まれ、還暦を迎えた楠正人さんには、ふたつの顔があります。ひとつは父の代から作り続けているスイカの生産者。もうひとつは、トマトの養液栽培を手がける農業法人の社長でもあるのです。
農家の長男として20代で家業を受け継ぐために、アメリカで海外研修も経験。「極力、農薬を使わずにイチゴやスイカを栽培したい」と、土づくりに探究していました。そこから30代はじめに心機一転。地元の養液栽培の肥料メーカーに入社して、資材の開発を担当します。42歳でトマトの養液栽培と販売を手がける関連会社の社長に大抜擢。そこから約20年。土耕と水耕、家族経営と企業経営、ふたつの農業の道を同時に歩み続けています。
アメリカで大規模経営を学ぶ
楠さんの家では、お米とスイカ、ブドウやミカンなどを栽培していました。これらの農業の継承と、将来を考え「農業を続けるなら、海外の農業も見てみたい」と、21歳で農業実習生としてアメリカへ旅立ちます。
2年の研修期間中、西海岸北部ワシントン州のシアトル近くの農園に配属され、落葉果樹を専攻。アメリカ型の農業を経験しました。
「三兄弟がそれぞれ大規模農業を経営していて、一般畑作、畜産、果樹を分業。ひとつの農場がものすごく広く、私のボス(社長)はワインが好きで、ワイン用のブドウを作っていました」
ブドウやリンゴ等、果樹の仕事が中心でしたが、ジャガイモやミントなどの畑作も経験させてくれました。
「ああ、こういう世界もあるんだなと、カルチャーショックを受けました。規模があまりに大きくて、日本で同じことをするのはムリだろうな」
大規模経営が主流のアメリカでは、苗の定植もすべて機械で行いますが、楠さんが緻密に計算して一本ずつ植えていく日本のやり方を提案すると、現場のボス(責任者)が「いいじゃないか、やってみよう」と採用される場合も。貴重な経験を積んで帰国の途につきました。
土が落ち着くバクタモン®
帰国後「さて、これから学んできた事を生かして、何を作ろうか」と思案していた時、地元である市場町(当時)の農協で、出荷が始まっていたイチゴに着目。ブドウのハウスをイチゴに切り替え、土耕で栽培を始めました。
当時主流だったのは「麗紅(れいこう)」と「明宝」という品種。麗紅は、後に全国的に出回る「女峰」の親となった品種で、うどんこ病に強いのが強みでした。「明宝」は、大粒で食味がよい反面、傷みやすく、長距離輸送に向かないのが難点でした。
当初は10aのハウスで「麗紅」の栽培からスタート。後に「明宝」10aが加わって、合わせて20aに。農協を通じて出荷したところ、当時は10aあたり約500万円の売り上げがありました。両親と一緒にお米とスイカとニンニクも栽培していたので、経営も軌道に乗り始めていました。しかし、
「もっと味のよいイチゴを作りたい」
そう考えていた楠さんは、知人を介してバクタモン®の存在を知ります。
「土が良くなって、根張りがよく、株が病気に強くなる。そして食味も上がるらしい」
当時のイチゴ栽培は、尿素や硫安、化成肥料を使った栽培が主流でした。配合肥料も化成が中心で、楠さんのように有機質主体の土づくりにこだわる人は、ごくわずかでした。
「化成肥料の栽培は、いい時はいいけれど、酸っぱい時は酸っぱい。そして見た目にも、ちょっときつい感じがしました。有機質主体の栽培は、株も果実もおだやかでやわらかい。そしてツヤがある。ずっと見ているとわかります」
楠さんは薬剤による土壌消毒は行わず、太陽熱による土壌消毒を続けていました。堆肥も肥料も有機質、pH調整に必要な石灰も有機質のものを使用。その最後の「仕上げ」として微生物資材のバクタモン®を加えると、土が変わっていくのがわかりました。
「有機質の肥料を与えると、温度や水分によって、効きすぎたり効かなかったりしていました。そこにバクタモン®を加えると、効き目がまろやかになります。有機質を微生物がきっちり分解して、そこから出る有機要素がアミノ酸に変わったり、植物の栄養になるビタミンになったり。バクタモン®を与えると、土が落ち着くんです」
以来、イチゴは「やさしい味」に。ブレも少なくなり、楠さん自身もコンスタントに「80~90点」と評価できる味を出せるようになりました。
イチゴと並行してずっと露地で栽培していたのが、大玉スイカでした。
「父の代からずっと作っていて、父は有機と無機の肥料を使い分けていました。当時から農薬の散布量は少なかったと思います」
そんなスイカの圃場にもバクタモン®を使うことに。それまでは、時折、生殖生長よりも栄養生長が勝って蔓ばかり伸びてしまう「蔓ぼけ」が起きていたのですが、バクタモン®を使うと土が落ち着いて、こうした症状は抑えられました。さらに、
「畝間にバクタモン®を振るようになってから、味が変わった。進化しましたね」
楠さんのスイカは、食味だけでなく安全性にこだわる生協の組合員にも大好評で、根強いファンも多数。バクタモン®を知った昭和の時代から、毎年欠かさず使っています。
農家から養液栽培の研究員へ
イチゴを作り始めて10年ほど過ぎた頃、楠さんは自身の農業のあり方に疑問を抱くようになっていました。せっかく土にこだわって栽培しているのに、共選出荷していると、その努力が評価されにくい。なんとか自分で売れる道を模索したものの、
「自力販売には限界がありました。もう一度、農業や流通をちゃんと勉強した方がいい」
折しも日本の農業界に水耕栽培が広まっていた時期。楠さんは、徳島県の肥料メーカーが栽培研究センターを新設し、研究員を募集していることを知りました。
戦後間もない昭和20年代、日本へ滞在したアメリカ進駐軍は、兵士たちの食料としてレタスの栽培を求めました。生で食するレタスに、当時日本で使われていた「下肥」はご法度。清潔な環境で栽培を可能にするには、土を使わない水耕栽培が適していると、いち早くその液肥の開発に乗り出していたのが、この会社だったのです。
当初は、特殊な栽培方法と位置付けされていた水耕栽培。天候にあまり左右されず、清浄な環境で安定的にできる方法として、1990年代には実用化が進み、液肥の需要が高まる中、1996年に養液栽培の資材や技術を開発する栽培研究センターが設立されました。
「農業をちゃんと勉強し直したい」
そう考えた楠さんは、その募集に応募。改めて、研究員として就職することに。会社にはそれまでのイチゴ栽培を止めて、土日は米やスイカを栽培する家の農業に携わることをきちんと申し出て、承諾を得ました。また両親も、妻も納得してくれました。こうして土にこだわり、家族経営で作物を作り続けていた楠さんは、企業が取り組む養液栽培という新しい世界の扉を開け、飛び込みました。
「同じ農業でも、それまでとは別世界ですが、土耕、水耕、養液土耕、すべて学べるいい時代でした。ただ、作物を育てることについては、土耕も水耕も、基本は一緒なんだと思います」
研究員として、リンゴのビターピットの改善に役立つカルシウム剤の開発に関わった経験も。試験栽培のため、産地の青森県を訪ねました。果樹栽培の経験と剪定の心得もある楠さんは、リンゴの樹を見ただけで農家の努力の跡がわかります。
「すばらしい樹ですね」
「わがる?どっから来たの?」
「四国の徳島です」
「うわあ、外国みだいだ(笑)」
地元の農家の人たちと、そんな会話を始めたことも、忘れられない思い出です。
企業農業の難しさに直面
そんな楠さんに転機が訪れたのは、42歳の時でした。水分をギリギリの限界まで絞って栽培する、高知県産の高濃度トマトが高値で評価され、脚光を浴びていた時期でした。これに着目した異業種の大企業が次々と農業へ参入し、大規模な施設を建設してトマト栽培を開始して、話題になっていました。
その流れに乗り、楠さんが所属する企業グループもまた2003年、独自に開発したシステムや液肥の普及を目指し、自社製品でトマトを栽培。さらに販売も手がける新会社を設立しました。そして楠さんは、その社長に抜擢されたのです。
「いきなり社長に任命されて…会社を経営するのは初めてで、本当に大変でした」
当初は、当時高値で取引されていた、フルーツトマトの栽培に取り組みました。ところが、いざ始めてみると、品質のよいものが穫れるものの、思ったほど収量が上がらず、なかなか採算が取れません。
自社製の液肥を使った養液栽培だけでなく、農家の空いたハウスを借りて従来型の土耕栽培や、土に灌水チューブで肥料を施す養液土耕栽培にも挑戦しました。販売先も自ら開拓し、とにかく経営を軌道に乗せなければと必死でした。
既にユニクロやオムロン等、異業種の企業が大規模な施設を建設して、トマト栽培に乗り出していましたが、いずれも短期間で撤退。工業製品と違い、農産物収量が不安定な上、人件費や保険、年金など一定のコストがかかるので、採算を取るのが難しいのです。資金力のある大企業でも、安定的な利益が見込めないと判断すると、早々にトマト事業から撤退していく中、社長になった楠さんは決して諦めませんでした。
「我々はトマトの販売を通して、自社の液肥や栽培システムを生産者に広める広報活動も担っています。人を雇って、設備投資もしなければ。フルーツトマトだけではやっていけない。でも『おいしいトマトを作ろう!』この目標は外せない」
そう判断した楠さんは、ミニトマトやミディトマトの栽培にも着手したいと、親会社を説得し、資金を調達。土耕、水耕、養液土耕。フルーツ、ミディ、ミニ。多様な栽培方法で多彩な品種を栽培し、顧客のニーズに合わせて適正価格で売り分ける戦略で、なんとか経営を軌道に乗せることができました。
徳島と島根を行ったり来たり
そうして試行錯誤を重ねていたある日、企業と家業のトマトのハウスを、島根県の高原にある町の町長が訪れました。その用件は、
「うちの温室で、トマトを栽培していただきたい」というものでした。
突然の話に驚きましたが、事情を聞くと、この町でもフルーツトマトに商機を見出して、栽培に着手した人がいたのですが、経営的に立ち行かず撤退。町には巨大なハウスだけが残されて困っているとの事でした。
「島根の高原でトマトを栽培して、なんとか助けていただきたい」と町長。しかし、楠さんが率いる農業法人の事業も、ようやく軌道に乗ったとはいえ、自社の経営を維持するのがやっとの状態でした。
「我々が助けてほしいくらいで、とても遠くのハウスに出向いて栽培する余地はありませんでした」
それでも楠さんが着目したのは、その農場の気候と環境でした。徳島の農場でトマトを出荷できるのは10月~翌5月で、冬場がメイン。一方、標高500mの高原に位置するその農園は、雪の多い冬場は栽培に適さず、夏の栽培が中心でした。
「徳島と島根。2つの産地をつなげば、一年中出荷できるかもしれない」
そう考えた楠さんは、車で4時間の道程を超えて島根の高原へ。すると、そこには1棟50aの大型ハウスが4棟もそびえ建っていて、想像以上の規模の大きさに驚きました。
「これは私たちの手には負えない。とても無理ですとお断りしました」
それでも、町長から「なんとかしてほしい」と切実な訴えが何度も届き、農場再建を担当していた弁護士も、極力有利な条件で栽培できるように尽力してくれました。そんな経緯もあり楠さんは「島根で夏場のトマトが作れれば、有利に展開できる」と、親会社を説得。
こうして徳島と島根を行ったり来たり。2拠点でトマト栽培が始まります。
「島根では、フルーツではなくミディを夏中心に栽培。それを販売できるお客さんも見つかりました。さらに、燃料を焚かずにコストを下げて作れるシステムを、みんなで開発。2年目くらいから、なんとか黒字に転じることができました」
家族経営の農業に限界を感じて、企業へ就職。研究員として水耕や養液土耕栽培の基本を学び、液肥や資材の開発も経験した楠さん。新会社を設立されてトマトを栽培した時、企業が農業に取り組む難しさを、身を持って経験しました。
それでも、家族のように親身になって地元の人たちと取り組む姿勢と、楠さんが所属する肥料メーカーが取り組んできた最新の養液栽培の技術が、2つの農場を結びつけ、トマトの周年栽培を実現させたのです。
今、徳島のハウスではミディやミニトマトを栽培中。ハート型の愛らしい果形が特徴の「ルネッサンス」という品種も人気です。水耕、土耕、養液土耕等、さまざまなタイプのハウスが点在し、色も形も大きさも異なるトマトを栽培。かつて農協の選果場として使われていた施設を利用して、選果を進めています。
微生物資材は、水耕栽培でも有効か?
そんな楠さんに、改めて尋ねてみました。
――環境制御型の施設で、微生物資材を活用することは可能ですか?
「私は、できると思います。現に、葉面散布等でも施用しています」
ただし、養液に使用するには、カビが繁殖したり、灌水チューブが目詰まりを起こさないようにする等、技術的な課題はまだ残されていると考えています。
――水耕栽培で有機栽培は可能ですか?
「そうですね。有機JAS認定を取っている資材をうまく使えば、できる可能性はある。生産者を規則で縛る有機農業ではなく、環境に適応して、みなさんに喜んでもらえる。そんな考え方で取り組んでいく必要があるのかもしれません。」
さて、楠さんの圃場では、昭和の時代から現在も大玉スイカの栽培が続いています。栽培面積は約20a。「甘泉(かんせん)」という品種を、1株から3~4個を収穫し、パートタイマーの力を借りて、1カ月に約2,000個を出荷しています。
全国的に小玉やカット販売が主流となり、大玉スイカの生産量は全国的に減少していますが、楠さんはそんな時こそ大玉を作る意味があると考えています。
「今、ハウスでも小玉。大玉スイカを作る人はいても、露地で大玉を、しかも有機で作ろうという人はなかなかいません。その分、ライバルも参入してこない。スイカは本来、大玉を丸ごと食べる方が美味しい。ファンがいる限り、作り続けたい」
そんな楠さんが作る大玉スイカは、生協を中心に販売されていますが、これまで「まずいと言われたことがない」のが自慢。バクタモン®の力で、落ち着いた土から生まれる大玉スイカ。今年も7月から出荷が始まっています。
2020年3月20日 取材・文/三好かやの
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