若宮で巨峰を始めたパイオニア
福岡県北部、福岡市と北九州市の中間地点に位置する宮若市は、2006年2月、宮田町と若宮町が合併して発足しました。元々若宮町の住民だった人たちは、若宮町民から宮若市民へ。若と宮がひっくり返ったので、最初はちょっとややこしかったようです。
塩川正治さん(73歳)は、そんな宮若市の若宮地区でブドウを栽培しています。
「昔、このあたりはみんな田んぼでした。私が子どもの頃、親父はスイカやメロンをいっぱい作っていましたね。そしてブドウを始めました」
かつて、若宮で栽培していたのは「キャンベルアーリー」。アメリカ生まれの生食用品種で、明治期に日本に導入されました。「デラウエア」と並んで日本の主要品種となった黒いブドウですが、「若宮のキャンベルアーリー」は、当時の小倉の卸売市場でも評価が高く、産地として認められていたそうです。
正治さんの父、信幸さんはそこへ「巨峰」を導入します。それは静岡県で「キャンベルアーリー」から生まれた石原早生を元に育種されました。その名の通り、大粒で甘味が強く大人気。全国で栽培に乗り出す生産者が続々と登場します。
「ちょうど今のシャインマスカット的な存在やったんやと思います」
ところが、「巨峰」は「キャンベルアーリー」よりも房づくりが難しく、大粒で大きな房を作りこなすのがとても大変だったそうです。それでも生産者たちの間では「これをきちんと作れば儲かる」という気運が高まっていたので、信幸さんは若宮の仲間たちと技術も磨き、栽培面積を増やしていきました。
「以前は露地で作っていましたが、樹の上からバーっとビニルをかけて巨峰を作る農家が、どんどん増えていきました。父は『若宮に巨峰を広めたのは自分だ!』という自負が強かったと思います」
三きょうだいの真ん中で
さて、現在園主を務める正治さんは、「若宮の巨峰のパイオニア」である信幸さんの次男として生まれました。兄と妹に挟まれた三きょうだいの真ん中で、子どもの頃はやんちゃで気が強く、要領がいい。そんな少年だったそうです。
「すると、うちのばあちゃんが、『正治は根性があるけん、畑はお前がせい』。子どもの頃から、ずっとそう言われていました」
勉強熱心な兄は、いつも学業優先。末っ子の妹は、初めての女の子で何かと可愛がられる。その間でちょっと寂しさを感じていた次男の正治さんは……
「学校から帰ると、机に書き置きがありました『畑へ来い』。兄貴は試験勉強やら何やらで忙しい。だから私が畑を手伝うようになっていました」
こうして祖母の言いつけ通り、「やんちゃな次男」が農作業を手伝うことになったのです。
ブドウはお前がせい
地元の農業高校を卒業した塩川さんは、近くの設立された陶器メーカーの工場に勤務し、26歳で結婚。高校時代から趣味で描き続けていた絵がとりもつご縁でした。正治さんは工場勤務のかたわらブドウ畑を手伝っていましたが、正治さんが28歳のときに体を壊し、それを機に退職。父とブドウを作るようになりました。ところが……
「一緒に仕事を始めたら、ケンカばっかり。考え方がまるで違うとです」
戦地への従軍経験もある信幸さんは、いつもバリバリ。100mの草刈りもなんのその。とことん自分を追い込んで農作業にのめり込むタイプでした。かたや戦後生まれの正治さんは、もっと合理的に作業を進めたい。2人の考えが対立して、ことあるごとにケンカが絶えませんでした。
するとある日、信幸さんが、
「ブドウはお前がせい」
このままでは正治さんがブドウを辞めてしまう。そう考えた信幸さんは、息子に一切を任せることに。当時、信幸さんはまだ60代。正治さんは30代になったばかりのことでした。
O157を引き金に…
塩川さんの家では、当初は地元の農協へ共販で出荷していましたが、その後自分で直接北九州や直方市の市場へ運んで販売するようになりました。共販と違い、市場出しは日によって大きく価格が違います。安値に泣かされる日もあり、なかなか売上げが伸びないことが悩みでした。
そうこうしていた1996年の夏、大阪で大腸菌O157による食中毒事件が起こります。食中毒とブドウは関係ないはずでしたが、これを機にブドウ園の経営は大きなダメージを受けてしまいます。
「野菜も果物も、生で食べられるものが売れなくなってしまった。それからずーっと安値安定が続きました」
当時は誰もが食中毒を警戒し、何でも加熱して食べるようになり、給食に使用するキュウリですら加熱消毒するようになっていました。とはいえ、ブドウを湯通しして味わう人はいません。食中毒事件に端を発する不穏な空気は、一般市民のフルーツの買い控えにつながり、ブドウの価格は安値安定。そんな状況がずっと続いていたのです。正治さんが40代半ばのことでした。
「せっかく作っても、安く競り落とされるだけ。何をしてもやり甲斐がない。そんなわけで40~50代の頃は、真剣に栽培に打ち込めずにいましたね」
そんな状況の中、塩川さんは自宅でブドウの直売を開始。近隣の生協を訪れる人たちや、工場勤務の人たちに販売するようになりました。そして幹線道路に面した畑の一角に、地元の仲間たちの協力を得て、小さな直売所を設立したのです。
「大工さんや、建築士さん、みんな呑み屋で知り合った友達です」
孫が自慢できる存在に…
それでも価格の低迷は続いていて「このままじゃいかん」と思っていた18年前、塩川さんにある転機が訪れました。
「初孫が生まれました。それはもう、かわいくて仕方がない。これからは孫に自慢されるようなじいちゃんにならなあかん!もっと頑張って、いいブドウを作ろう」
そう決意したのです。
ちょうどその頃、隣の福津市でトマトを栽培している久保田哲次さんのハウスを訪ねました。「バクタモン®な人々」№34にも登場する久保田さんは、塩川さんの従兄弟に当たります。
「哲次の作ったトマトがすごく美味しかった。これは何を使って栽培しとっと?と訊ねると、バクタモン®のことを教えてくれました」
すると、福岡市からバクタモン®を販売する(株)サンセラプラントの小林克己さんがやってきて、ブドウ栽培での使い方や、その効果について教えてくれたのです。
「せっかく紹介してもらったけど、話を聞くだけでは効果のほどがようわからん」
花のプランターで比較実験
そこで、塩川さんは一計を案じました。
「ブドウに使う前に、花でちょっと試してみよう」
塩川さんの奥様はお花が大好きで、庭先には花の苗を植えたプランターがたくさん並んでいました。
ひとつのプランターにバクタモン®を与え、もうひとつのプランターはこれまで通り育て、両者の生育具合を比較しました。すると、バクタモン®を与えた方が咲き方が美しく、花も長持ちすることがわかりました。さらに驚いたのは、花が枯れた後です。
「花が終わった株を抜こうと思ったら、根がパンパンに張って、もう抜けんとです。これは間違いない。花もブドウも、根は大事ですからね」
プランターでの比較実験の結果、バクタモン®の効果を確信。ブドウ畑に使うようになりました。
草が肥料に変わっていく…
もうひとつ、塩川さんがバクタモン®の効果を目の当たりにした出来事がありました。
「ちょっとお恥ずかしい話なんですが……」
塩川さんは農作業の合間に、ブドウ園の一角で小用を足すことがあります。するとその場所に生えた草は、ほとんど育たなくなってしまいます。
「昔、学校帰りにナタネ畑の同じ場所で用を足していたら、草は枯れてしまいました」
人間の尿には、尿素やアンモニア等、窒素分を含んだ成分が豊富に含まれているのですが、直接植物に与えても、草や作物は育たず枯れてしまう。それは経験的に学習済みでした。
ところが、「バクタモン®を撒くようになってから、そこだけぶわーっと草が大きく育つんですよ」
これには塩川さんもびっくり!
バクタモン®に含まれる微生物が尿の成分を分解して、それを植物の根が吸収している。その違いに驚きました。
正治さんが信幸さんと栽培していた頃は、畑に除草剤を使っていましたが、ブドウ園を任されるようになってからは、年に何度も草を刈り、その場に敷き込むことでその成分を緑肥として活用する「草生栽培」を実施しています。
3月下旬に訪れたブドウ園の足元に生えている草々は、鮮やかな緑色。こうして生えた草もまた微生物に分解されて土に還り緑肥となり、ブドウ栽培に貢献しているのです。
食味に変化が現れて…
かつて、除草剤や化学肥料を使って栽培していた頃、塩川さんの「巨峰」の糖度は18度がアベレージでした。それが圃場にバクタモン®を散布し、それを使ったぼかし肥を使うようになってから、ほとんど20度を超えるようになりました。中には23度のブドウも数多く出現し、ときには24度になることもあるそうです。
「人間は、20度を超えると『甘~い』と感じるじゃないですか?うちのブドウは、そんなに甘味は強くない。それでもコクがあって。つい、もう一粒食べたくなるんです」
現在は、塩川さんの似顔絵入りのパンフレットに「化学肥料と除草剤は使用していません」と明記して販売。顧客の大部分が、毎年塩川さんのブドウを楽しみにしているリピーター。今では地元の常連客を通じて、北海道や沖縄にも発送されるようになりました。
現在、塩川さんは父から受け継いだ「巨峰」、その後継品種の「ピオーネ」、そして今、全国的に広まっている「シャインマスカット」を主軸に栽培。さらに長野生まれの「高妻」、大粒の「天山」、福岡県生まれの「翆峰」、そして塩川さんが「一番好き」な赤色の「ゴルビー」等も栽培しています。
「巨峰は、今も種ありで作っています。他の新品種は種無しで出荷しますが、巨峰は種ありの方が糖度が上がる。ジベ処理の手間もなくて、省力化にもなります」
塩川さんは、開花前の3月と収穫前の6月、バクタモン®を土へ直接散布しています。3月は根のはたらきを呼び起こし、さらに6月には果実を充実させる効果があると感じています。それは80年代に、東京農業大学の川島栄助教授が解明したバクタモン®の「土の中で眠っている難溶性リン酸を可溶性に変える」作用によるものと考えられます(※)。
規模を縮小して作り続ける
最盛期には1.4haの畑でブドウを栽培していた塩川さん。以前はブドウから手を引いた信幸さんも、草刈りを手伝ってくれました。
「もう喜んで刈ってましたね。『戦争のことを思えば、これくらいへっちゃらや!』って」
そんな信幸さんも10年前に他界されました。摘果や袋がけ等、人手が必要な作業には地元の友達が加勢にやってきて、ブドウ棚の下でバーベキュー大会を開き、労をねぎらったこともあります。
そんな塩川さんも徐々に規模を縮小し、70歳を過ぎた今は50aの畑で栽培を続けています。
「去年の夏、袋がけが終わったらヘルニアの手術をする予定でした。それがどうしたことか、作業が終わったら治っていた。今は後継者がいない状態ですが、体が動く限り5反ぐらいなら一人でできるやろ」
面積を絞って、土と房作りを大切に。全国のファンが待ち望む、糖度と食味の高いブドウ作りは続きます。
18年前、塩川さんのブドウ作りに転機となったお孫さんは6人。うち男の子が2人いて、部活に余念がない様子。もしかすると…
「2人とも畑へ来い!」
近い将来、そんな手紙がそっと机の上に置かれる日が来るかもしれません。
※川島栄「土壌微生物農材バクタモンの利用効果ー難溶性燐酸の有効化なるかー」(1980年「新農政」8,9月号)掲載」
2024年3月21日
取材協力/(株)サンセラプラント
取材・文/三好かやの
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