『地中のドラマ』を思い起こす
                               元東京農業大学 教授 金木良三農学博士

1.はじめに…
 昔、昭和30年以前に主任教授より命ぜられ、標記主題の短い英文の翻訳をした事を思い出す。出来上がった本はB5サイズの30頁余りの小冊子であったが、翻訳の依頼主は日本競馬協会であり、馬事に関わりがありそうだからと言うことで、主任教授が依頼され、その下請けをさせられた訳である。
 もう40年以前ののとであり、翻訳冊子を一部保存していた筈であるが、見つからない。内容的には牧草作りの土の管理、また、畜舎の白壁が牛馬によってよく噛まれるという内容であった。
 牧草の栽培には土の管理が、良い牛馬を育てる牧草に生産にいかに関与しているかと言う…その為に微生物が土中で演ずるドラマを描き、家畜舎の白壁が噛まれるのは、壁の中のマグネシウムやカルシウムを家畜が要求…換言すれば給餌される牧草中にそれらの成分が不足する為だと言うようなことが書かれていた。残念ながら土中の微生物のドラマがどのように描かれていたか、ほとんど記憶にない事が残念であるが、土壌中には無数の微生物が存在し、作物を育てる原動力になっているという事が解説されていたと思う。著者はダンⅢとか…アメリカ人であったと記憶する。


2.農業とは…
 昭和21年9月農学部農学科を卒業し、翌年10月、大学の助手に採用され作物学研究室に勤務することとなった。戦後の10年余りの間には、それこそ色々のトラブルに遭遇し、しかも大空襲で渋谷の母校は壊滅。世田谷の元陸軍機工整備学校の跡地をかなり無理して借り入れての教育再開。
 とは言いながら、旧兵舎を利用しての教室は薄暗く、誠にお粗末で学生の多くはまず、腹を満たすための行為が優先する時代…キャンパスの空き地は殆ど学生の手で、甘藷・馬鈴薯、その他の野菜が作られ、いかにも農大らしい雰囲気。農学とは実学なりとばかり、講義より栽培実践が優先されていたことを思い出す。
 昭和31年助教授に昇格し、時折主任教授の代講が許され、作物学を講義した。農業を科学することが農学とは言いながら、戦中の学生、講義らしい講義を受けずにいつの間にやら教壇に立ったとき、農業の定義に戸惑った事を思い出す。色々な図書を現況したが、難しい表現をすれば「農業とは有機的生命体の経済的な獲得という、人間の目的的な営為の秩序あるいは体系」-柏祐賢-と言うことになりそうであり、とても学生に理解させる事は難しい。 
 元来、「農とは田畑を耕し、穀菜をううること」であるから、農業とは農を生業とする産業と言って良かろう。では、田畑とはと言うことになるが、これも簡単に言えば「田は湛水灌漑を常態とする耕地」であり「畑は田以外の耕地」と言うことができる。しかし、樹園地や桑畑・茶畑など、永年的に植栽されている以外の畑は普通、畑と呼ばれる。いづれにしても、農業とは耕地を対象として作物を栽培生産する生業であることを念頭に置い頂きたい。


3.耕地とは…
 昔から肥沃地とか痩せ地とか言う言葉が世置こう使われてきた。肥沃な耕地(水田・畑に共通)とは、生産性の高い耕地であり、痩せ地は生産性の低い耕地を指す事は間違いない。
 一般的に新規開墾地は地力が低く、熟田熟畑は地力が高いとされる。では地力の大小はどのように判定されてきたのであろうか?作土の深浅、適度の腐植の有無、地下水位の高低、土質等々種々の因子が対応作物にもっとも適した常態にある耕地がそう呼ばれて来たのであろうが、人為的な肥培管理も見逃せない要因であろう。
 地煮的な耕地の肥培管理が熟畑、熟田を作ることも知られている。人間の最初の農耕は焼畑とされ、これが常畑化したのが現在の耕地である。常畑化のために人は随分苦労をしてきた筈である。苦労しながら痩せ地を肥沃化するために尚更努力を重ねてきた筈である。
 その努力の一つが、暗渠排水であり、灌漑であり、深耕、客土、あるいは防風林、防風垣等々…あえて栽培技術は省いたが、耕地環境の整備には経験的なものも含め多くの努力がなされてきた。
 第二次世界大戦後、化学肥料が急速に多用され始めたが、一方、戦前頼ってきた下肥、堆厩肥の使用は目だって減少してきた。最近はまた有機肥料が見直されてはきているが、堆肥、厩肥の施用効果については耕地土壌の団粒化による物理的効果以上の認識はまだ薄いようである。
 堆厩肥の土中における分解過程で、土中微生物がどれだけ、どのように活躍しているのか、微生物の産生物による植生への影響など…いまだ不分明な点が多いが、根粒菌を初め、アンモニア化成、硝酸化成などに関与する細菌、細菌では菌根菌、また土壌菌の産生物による病害防除作用なども報じられ蝸牛の歩みながら少しずつ解明されていくようである。


         バクタモンサミット in 兵庫    1998年7月8日



4.生きている耕地土壌…
 生産性の高い耕地とはどんな土壌だろうか?正直に言ってその答えは大変難しい。作物生産性の高い…地力の高い耕地とは…。
 耕地土壌は始終鍬や鋤の入る表層土壌-略して表土と、それよりしたの心土層-略して心土に分けられよう。一般に地力の高い耕地は表土が深く、痩せ地は浅いとされる。表土とは所謂作土層であり、作物の根がよく滋植するところとされる。もちろん根は心土層にも伸びるが、根からの養分吸収は殆どが作土層からである。
 この作土層に絶えず鍬が入り、土中の土粒、水分、空気の量的バランスが取れている状態で初めて根はよく滋植し、地上部の生育もよくなるはずであるが、一方、作土の土性も問題である。
 土壌は岩石が風化して出来上がったものであるから、母岩によって土性は変わってくるが、風化の程度によって礫となり、砂と成、あるいはシルト、また、粘土となっていわゆる土壌が構成される。母岩は一般に火成岩、水成岩、変成岩に大別されるがここでは省略する。
 前回、迂闊に農耕は焼畑に始まると書いてしまったが、焼畑も原始農業の始まりの一つではあるが、川の流域における農耕の発達もある。世界農業の発祥の型として、地中海農耕文化、サバンナ農耕文化、根菜農耕文化、大陸農耕文化が中尾佐助によって唱えられている。ナイル河畔、チグリス・ユーフラテス河畔など、世界の大河の河川敷も肥沃な土壌に覆われていたであろうから、この河川敷が農耕地として利用された事も事実である。
 ただ表題に掲げた生きている耕地ということである。一例を上げて見る。大島の三原山…つい数年前にも爆発し、山肌は火山岩で覆われたが、以前に爆発、荒れた土地にはいつしか草が生え、小さな樹木が生じ、ついには畑にまでなって種々の野菜、草花が作られている。宮崎県の一角でも、昔の農法を考えるとして一部樹木を切り払い、焼き払った後、ソバやダイコンを蒔きつけ、焼き畑農業の伝統を実験的に残しているという。
 しかし、これら焼畑は作りっ放しではすぐ取れなくなってしまう。いわゆる略奪農業となってしまう。河川敷の畑でも同様である。作物を収穫した以上、作物が持ち出した土壌養分を見返しに与えねば、耕地からの生産はストップすることは当然のことである。すなわち、耕地は死んでしまう事になる。


5.土壌…
 耕地土壌は一般に、粘土含有量の多少によって分けられる。埴土、埴壌土、壌土、砂壌土、砂土の5段階に分けられる。50%以上の粘土を含有すれば埴土、37.5~50%の粘土を含有すれば埴壌土、粘土50%なら壌土…と12.5%を目安に分類する。
 これらの土壌は、いわゆる土壌の構成主要素であって、土粒のおおきさによって礫、砂、シルト、粘土と区分される。これら土壌は全て無機質であり、植生とかかわりを持つのは粘土分だけとされる。これら無機質土壌だけでは、単にその有する生命体への養分の供給にとどまり、供給できる養分が枯渇すれば、単なる植物の支持体にしか過ぎまい。しかし、耕地土壌中には無数の生命体が共存していることをわすれてはなるまい。
 大地には無数の生命体が棲息し、我々人間と同様に呼吸をしている。土壌条件の良否によっても異なるが、一般的には昆虫などの幼生、原生動物、藻類、カビ類、放射菌、細菌類等1g中に1,000万個以上の微生物が生息している。これら目に見えない土壌微生物相のなかに作物の根が入り込み、巧みにこれを利用しながら棲息していく事は大変なことであろう。土壌中では絶えず目に見えぬドラマが繰り広げられている。しかもこれら土壌中微生物は動植物系の残渣を分解しながら自らの生命を培っているわけであるから、全ては共存関係にあるとあって良い。
 この地球上の生物と土中微生物との間には物質循環の流れがあって、初めてこの地球上に生物が棲息できる訳であるから、この物質循環の法則が乱れぬよう、我々は配慮すべきである。
 戦前までは作物生活は耕地土壌によってなされてきた。戦後は施設園芸がかなり拡大し、自然の人口増もあって科学的機械的生産が注目される機会が多くなってきたように思われる。戦後の日本人口は戦前の倍近くなりながら、耕地面積もこれ以上開発の余地が少ないと言われている。


6.最後に…
 農業とは、大地よりの作物生産でなければなるまい。大地を培い、土中の微生物相の力を借りての物質循環産業でなければなるまい、研究の上での、水耕、礫耕は許されよう。機械化も許されようが、生産母体である土への労い、底に住む微生物相への理解を十分にもって地中微生物のドラマを観劇したい昨今である。

   ※注 文中の滋植なる用語は、作物根の繁殖状態に対する特殊用語とご理解ください。


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