農との出会い…
元東京農業大学 教授 金木良三農学博士
1.農業への開眼
戦前-大東亜戦争開戦前の農業に着いては知らないが、私が農大予科に入学したのが昭和17年。それ以前は、両親の本家こそかなりの水田地主ではあったようであるが、父は分家の身であるからなにがしかの金子を貰って、挑戦は京城に居住。そこで生まれ小学校6年2学期から東京に遊学。
言うなれば都会生まれの都会育ち…戦前の農業を語る資格は全くない。しかし、徴兵を免れ、繊維作物研究の名義のもとに、当時の群馬県群馬郡の2~3の村に勤労動員で昭和18年、あらかた出征し、学部学生として残された僅かな上級生であったからである。農業のノの字も知らず、男手のいなくなった農村では若い学生を喜んで受け入れてくれた。それも、農学の学生であるから、農家、農業の手伝いは双方にとって極めて良いことであった。
農学は実学と言われ、経験・体験を通して初めて身につく学問とされる。戦争が○烈となった昭和18年、大学の講義は全く停止。すべての学生は出征か、勤労動員に駆り出された時代。農村への動員は実学を学ぶ最高のチャンスであり、都会での貧しい配給生活と比較にならぬ恵まれた食・住環境のなかで、老農の教えを受けて農業生産に従事できた事は、戦後の教壇生活になくてはならぬ経験となった。最初に配属された農家~群馬郡大類村での作業は暗渠排水工事であった。
暗渠排水などの言葉は全く知らぬまま一緒に配置された友人~これもチャキチャキの江戸っ子で商店の子弟~と二人、朝6時に起床、朝食後、農家の主人と3人、それぞれリヤカーを引きながら作業現地に向かった。もう明るくはなっていたが、農道の両側の畑は真っ白に霜が降り、まるで銀世界。白い息を吐きながら農家の主人に従った。初めての農村の冬の朝景色。
リヤカーを引きながら主人に尋ね、道の両側の畑には小麦が撒かれていることを知った。やがて田んぼ地帯に入り、田んぼに大麦が撒かれていることも教えられた。しかし、より低地の水田に着くと、裸地で薄く氷が張っていた。この水田に暗渠を作り水捌けをよくしてやることが目的と教えられた。
リヤカーに積んできたソダは暗渠の材料であることも教えられた。農家の主人の言う通り、作業を進めたがここで初めて溝には明渠と暗渠のあることが解った。この暗渠排水作業から、水田には乾田と湿田のあることを知った。この他、群馬では水稲の苗作り、代掻き、田植、除草、刈取り、脱穀等々、また桑畑間作のラッキョウの収穫、麦の播種、麦踏み、土入れ等々穀作のほか野菜の作付け、収穫、蚕の世話まで色々の農作業を経験させてもらった。
結論的にいうならば、殆どが手作業であり、耕運など一部作業に役牛が使用されていたこともあったと言う。足掛け3年間に亘る群馬での勤労動員は、私に農業生涯の一部を教えてくれたと同時に、群馬にいる間は余りヒモジイ思いをしないで過ごせたと言うことであろうか…
この群馬での農業体験が、私の農業に対する開眼になった事は間違いない。この勤労動員での体験から得た知識を2~3あげておきたい。 1.暗渠排水の効果…二毛作が可能となった事。 根の発育にプラスすること。 2.水田裏作には生育期間の短い大麦が小麦より適して いること。 3.完熟堆厩肥のりようで田畑が熟成すること。 4.労力分散、災害予防のため、水稲の早晩性品種を適 宜組合わせること。等々…老農に教わることができ た。 |
2.微生物利用堆肥との出会い…
群馬で農業に開眼した事は間違いないが、農大に入学してクラブ活動の一つとして、大学新聞の編集に関わり、白金菌の取材に当ったことは前に記した。大学卒業後の昭和27年頃、バクタモンとの出会い、そして若干のバクタモン利用試験については前に載せて頂いた。
昭和49年頃、東京都江東区にあった会社からトーマス菌利用堆肥製造機が私のところに持ち込まれた。トーマス菌については、バクタモンを知った頃から耳にはしていた。
アメリカのアープ・トーマス博士が、大正初期に開発されたもので、堆肥の完熟促成に効果を発揮するものと言う。トーマス菌は単体の菌種ではなく、アゾトバクターを初め、硝酸菌、繊維素分解菌、酵母等、土壌中に生息する百種類余りの微生物を抽出、培養したものと言う。要するに、自然界で自然の有機物が分解してゆく過程を短縮するため、分解に効果的に作用する微生物を適宜組合わせて作られた堆肥用部生物資材といってよかろう。
群馬での農業体験で、地力の増強には堆厩肥の連年継続利用で地力の維持できる事は脳裏に刻まれていた。しかし、施用量、また、その質については余りよく知られていないことも事実であった。
3.農業の意義…
地力の維持の前提として、農業の意義を承知しておかねばならぬ事は、前に述べた。即ち、農業とは大地の耕地化利用を大前提としての言葉である。
水耕、礫耕などの栽培方法は作物生産の手段であって、農業の範疇外の農業-作物生産事業とでも言うべきか…。
水・礫耕にはそれなりの意義があり、そのような生産を否定するものではないが、エネルギー、資材等の多投型作物生産体系であるから、採算面ではそれなりの工夫が必要である。また、施設栽培、所謂トンネル、ハウス栽培など土壌を母体とする生産は、農業の内に含められるが、露地栽培に比較すれば、技術革新型農業?と言うことが出来ようか…
いずれにしても農業とは大地である耕地利用を前提とする作物生産方法また、事業と考えるものである。
4.地力とは…
地力とは耕地の持つ作物生産の潜在的能力を言う。これに人為的生産力を付与して、耕地の作物生産力の活性化を図ることが地力維持である。耕地のもつ作物生産潜在能力は、耕地の成り立ち、土壌の母岩の性質、気象条件、その他の環境諸条件が関与してできる。
5.地力と植物栄養…
そもそも耕地は、河川の流域とか或いは山野を切り開いて成り立つものであるから、その土壌の有する作物への養分が不足すれば、その耕地の生産力は低下してしまう。河川流域の場合は、河川の氾濫によって肥沃な上流の土壌が流れ込む…今でいう「流水客土」などの自然現象から、耕地の地力が自然に回復する事もあるが、山野を切り開く、所謂「焼き畑農業」などは、施肥などなされなかった時代には、新たに土地を求め、焼畑を繰り返すことになり、略奪農業と呼ばれることも当然のことであった。
河川近くでの農耕は不安定であり、略奪農業にも限度があり、環境破壊にも連なるから、常畑化への歩みは当然の帰結であろう。人口が増え、定住しての生活のためには、住居の周辺に一定の農地を確保する事が必要であるが、農地の生産性、生産力を保持するためには、かなり労力が伴ったはずである。
先人の知恵の積み重ねから、施肥による地力保全の努力がなされた。草を刈り、落葉を集めて堆積し、これを田畑に施用すること、また、人糞尿などの施用がいつ頃始まったのか…私の専門は作物学であり、土壌・肥料などについて特に研究したことはないから、詳しい事は解らぬが、人糞尿・堆肥などはかな古くから使用されていたようで、江戸時代初めには、肥料効能を考証的に説明した著述として今日に残るものはかなりある。
松浦伝次郎、宮崎安貞、佐藤信淵らの著述は農書の鼻祖として有名である。科学的な研究は明治20年前後から始まったが、主として科学的肥料から始まったもののようであり、堆肥・厩肥、また、人糞尿などについては特に取り上げて対象とすることなく、慣習的に使用されていたようである。もちろん、明治中葉期、肥料取締法が公布され、大豆粕、菜種粕などの植物性、また、にしん粕、鰛粕などの動物性有機質肥料など、その対象とされているが、これらは販売肥料であり、自家製の堆厩肥、人糞尿などは対象外であった。
自給肥料である堆厩肥などの総合的研究が水深され始めたのは昭和12年頃で、販売肥料が不足し始めたのがその動機である。丁度支那事変勃発による、中国からの粕類が輸入不足となり、加里塩も供給難から施肥の改良、自給肥料の必要性などが試験研究の対象に取り上げられるようになった。
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