『農俚言雑感』
元東京農業大学 教授 金木良三農学博士
1.初めに…
今は知らぬが、昔はよく格言やら金言、また、俚言など先生から教わった事を思い出す。教わるというより、格言や金言を引用しての人間教育、道徳教育が目的であったかも知れない。小学生時代には修身という教科があったか、中学はミッションスクールに入学したため、聖書の教科があり、毎日、20分くらいの礼拝時間があり、出席が義務付けされていた。もともと文系の志望であり国語や漢文は好きな教科で、教科書にでてくる短歌、俳句、また漢詩などには興味を持ったものである。
たまたま、昭和16年12月、大東亜戦争の勃発で、文系から理系に急遽進路を変更し、結果的には農学を専攻。これが生涯の課題となって今日に至った。戦時中の学生であるから、ろくに講義を体系的に聴くことも泣く、肩書きは貰ってしまった。しかし、戦時中、農家への勤労動員で、実際農業に従事、農家で教わった事、また、経験した事はその後の農学研究に非常に役立った。もともと農学は実学であるから、体験・経験は極めて大切である事も充分理解できるようになった。
以前の記事にも書いたと記憶するが、戦時中の3年余り、ほとんど群馬郡の農村農家で過ごさせてもらった。私にとって戦後の東京暮らしは食糧不足の初体験といえようか…群馬での生活は質素なものではあったが、空腹という事はなかった。戦時中の農村には、年寄りと女子供がほとんどで、二十歳代から四十歳代の男性は殆ど見られず、農業を全く知らない私でも助け人として大事にしてくれた。
当時の農業は、殆ど手労働であり耕作用の牛馬も殆ど見られなかった時代。田起しも代掻きも全てが手労働。収穫はもちろん手刈り、干架での感想、調整も足踏み脱穀機・唐箕・・・。田の鋤き起しには、エンガなる人力用鋤に振り回され、一日一畝(30坪)が一人前のところ、半分もできぬ始末。朝は朝食前に一仕事済ませてから・・・午後の暑い日中でも田の除草・・・夕方は暗くなるまで野良にあり、夕食は夏場等八時過ぎるのは当たり前・・・星を仰ぎ見ながら庭先の露天風呂・・・勿論普通の桶の風呂であるが、夏場は庭先で冬場は母屋と別棟の風呂小屋で・・・。
ある晩、風呂から上がり、農家の主人に焼酎一杯飲まんかと誘われ母屋に入り込んだ。
2.農業俚言・・・
当時貴重な焼酎をいただきながら、もろもろの雑談中、「この地方ではなぁ、色々の言い伝えがあるんじゃ・・・彼岸過ぎての麦の肥えちゅうてなぁ、三月の彼岸過ぎたら麦に追肥はやらんもんじゃったが、堆肥も空くのうなって、土が痩せてきよった・・・何か考えんといかんばい・・・」
この農家では大麦は水田裏作に、小麦は畑で作っていたが、今年の麦秋の穂先が何となく寂しい感じがしたらしい。所謂一穂粒数が少なく、粒の肥大が悪かったらしい。この時は良い堆肥の増産くらいの話しか記憶にないが・・・十数年後、二代目恩師の福家 豊教授が、米作日本一審査委員長をしておられ、米の反収向上について「五百キロまでは肥料で取れるがそれ以上は土だなぁ・・・」更に言葉を続けられて「『土深くして葉茂る』と言うからなぁ・・・」
戦前農家で聞かされた言葉も蘇り、農業に関する俚言、格言など記録しておかねばならぬと気がついた。地方出張の機会には、努めてその地方の俚言・格言を土地の古老から聞くように努力した。群馬では「彼岸過ぎての麦の肥」と聞いたが、信州では「彼岸過ぎての馬鹿肥やし」と聞かされた。また、これに引っ掛け、「彼岸過ぎての麦の肥、三十過ぎての男に意見」と言う諺のあることも知った。
どこでどう聞かされたか、資料の整理が不十分のまま散逸してしまったが、頭に残っているものだけでもと思った次第・・・。思い出すものを記してみたい。
1)一種二肥三作り・・・良い種を撒き適当な施肥管理が大事との意
2)旱(ひでり)に不作なし・・・部分的には旱魃があっても、全般的には稲の作柄は良い。
3)尾張大根秋田蕗・・・地域の名産を示したもの。
4)桃栗三年柿八年・・・実生から結実までにかかる年数。この後に達磨は九年 俺一生と続ければ、現代の生涯学
習に通じる。
5)主上田・・・努力すれば悪い田も良い田に変えられる。
6)桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿・・・桜は切るのは良くない。しかし、梅は切った方が良い。
思い浮かぶままに書いたが、俚言・箴言と言っても、現代には通用しなくなったものもある。地方的、時代的な色合いの強いものもあるが、今もって座右の銘としたいものも多い。
麦こやし 春の二度より 冬一度
芽立草枯寒土用(春秋冬夏のこと)